標高80メートルの丘上に1601年に築かれた平山城で、築城の名手と名高い藤堂高虎が築城した。
天守は1666年頃に伊達氏2代藩主の宗利が大改修し現在の形となる。
天守閣は貴重な現存12天守の一つで国指定の重要文化財。
宇和島城の歴史と特徴 宇和島城は、日本の愛媛県宇和島市に位置し、江戸時代には宇和島藩の中心地として栄えました。城跡は現在、国の史跡に指定されており、別名「鶴島城」とも呼ばれています。 この城は、藤堂高虎によって築かれた近世城郭であり、中世の板島丸串城の跡地を活用しています。城の構造は、標高74メートルの丘陵を利用し、本丸、二ノ丸、帯曲輪、そして北側の藤兵衛丸、西側の代右衛門丸、長門丸などが配置されています。また、東側には海水を引き入れた水堀があり、西側は海に面しており、「海城(水城)」としても知られています。 特に注目すべきは、城の縄張りです。五角形の外郭ラインが特徴で、これは幕府の隠密が送った密書に誤って「四方の間、合わせて十四町」と記されたことから、高虎の巧妙な設計が伝説として語られています。城を攻める側にとっては予想外の形状であり、攻め手を混乱させる効果がありました。 宇和島城には多くの間道があり、それらは原生林を通り抜けて西海岸の舟小屋や北西海岸の水軍基地につながっていました。これらの設計は、高虎の築城術の粋を集めたものであり、城を守るための戦略的なアドバンテージとなっていました。 明治以降、宇和島城は大部分の建物が撤去され、「城山公園」として整備されました。現在、天守や一部の門、石垣などが残っていますが、戦時中の空襲で追手門が焼失しました。天守は重要文化財として、その価値を後世に伝えています。
### 宇和島城の歴史
**平安時代から安土桃山時代**
天慶4年(941年)に警固使・橘遠保が藤原純友の乱を鎮定するため、宇和島城の前身となる砦を築きました。その後、この砦は板島丸串城として知られるようになりました。
建仁3年(1203年)に西園寺公経が伊予国の知行国主となり、宇和莊の代官に西園寺家支流の西園寺公広が補任されました。
室町時代末期には大友氏や土佐一条氏の侵攻を撃退しつつ、城の築城や改修が進められました。
**江戸時代**
慶長9年(1604年)、藤堂高虎が河後森城の天守を宇和島城に移築し、月見櫓としました。
慶長13年(1608年)、富田信高が宇和郡の十万石を拝領し、板島丸串城主となりますが、後に改易となります。
伊達秀宗が入封し、仙台伊達家の別家として城主となり、城郭の改修や建設が行われました。
**近現代**
明治4年(1871年)、宇和島城は兵部省に帰属し、大阪鎮台の所管となりました。その後、宇和島港の改修や文化財の保存が行われました。
昭和12年(1937年)、宇和島城は国の史跡に指定され、昭和20年には戦災で追手門が焼失しますが、その後の修復や保存が進められました。
平成6年(1994年)からは本丸や二の丸の石垣の修理が行われ、平成18年には日本100名城に選定されました。
平成28年(2016年)には作事所跡などが国の史跡「宇和島城」に追加指定され、今もなおその歴史と風格を伝えています。
### 建築 #### 天守 初期には高虎によって建てられた複合式望楼型の三重天守がありましたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)にかけて、2代目藩主伊達宗利によって現在の独立式の層塔型3重3階に建て替えられました。 #### 慶長期の天守 高虎の天守は、自然の岩盤を活用した地業をもとに構築され、初重は大入母屋屋根で、2重目以降は突出した外観を持っていました。初重の平面はほぼ歪みのない正方形であり、これが後の層塔型天守の設計に影響を与えることになりました。寛文2年の天守改修の文書によれば、建築後半世紀で腐朽が進み、修理が必要であることが示されています。 #### 寛文期の天守 現在伝わる天守は、寛文2年の改修を経て新たに建て替えられたものです。畳敷きの「高い敷居」や障子戸など、安土桃山時代から江戸時代初期の古い意匠が一部残されています。外観は白漆喰の総塗り込みで、千鳥破風や唐破風が配置され、玄関は開放的な唐破風屋根が使われています。また、窓からの射撃を考慮し、壁には鉄砲掛けが設置されています。 ### 上り立ち門 武家の正門である薬医門形式で、城山南側の搦手道口に位置しています。創建年代は特定されていませんが、控柱の科学的年代分析から、慶長元年から6年の藤堂修築期以前に遡る可能性があります。市指定の有形文化財です。 ### 山里倉庫(城山郷土館) 弘化2年(1845年)に建てられた武器庫であり、昭和41年に伊達家から寄贈され、城山内に移築されています。城山郷土館として一般公開されています。 ### 藩老桑折氏武家長屋門 宇和島藩の家老である桑折氏の長屋門で、城山北登城口に移築されました。建造時期は江戸中期と推定され、市指定の有形文化財です。 ### 追手門 宇和島城の正面口に位置していた正門で、昭和20年の宇和島空襲により焼失しました。桁行12間(約24m)で、その大きさから「十万石には過ぎた門」と称されました。 ### 構造 #### 本丸 天守が置かれ、二重櫓の御弓櫓・轆轤櫓・櫛形門南角櫓、平櫓の御休息所櫓・御鉄砲櫓・右髪櫓・櫛形門北角櫓が配置されていました。本丸への唯一の門である櫛形門がありました。 #### 二の丸 二重櫓の御算用櫓と平櫓の御書物櫓・太鼓櫓がありました。 #### 帯曲輪 二の丸から本丸を取り囲む曲輪です。 #### 代右衛門丸 藤堂高虎の家臣である矢倉代右衛門が造成または管理した曲輪と考えられています。 #### 式部丸 虎口や城門がなく、山上の曲輪とされています。 #### 井戸丸 平櫓1基がある曲輪です。 #### 藤兵衛丸 高さ13mの石垣が残り、現在は城山郷土館として公開されています。 #### 長門丸 二重櫓2基・平櫓2基・多門櫓1基があり、現在は児童公園として整備されています。 #### 三の丸 藩主の御殿があり、二重櫓の潮見櫓・月見櫓、平櫓が配置されていました。 #### 外郭塁線上 二重櫓2基と平櫓7基が配置されていました。 ### 場外への門 追手門・搦手門・黒門・矢筈門があり、黒門と矢筈門は海に面しており、舟入れを可能とする枡形が設けられています。
このように、宇和島城はその独特の縄張りと築城術、そして戦略的な位置づけによって、日本の城郭の中でも特筆される存在です。
[開門]
6:00~17:00(11月~2月)
6:00~18:30(3月~10月)
[天守]
9:00~16:00(11月~2月)
9:00~17:00(3月~10月)
無休
大人 200円
小・中学生 無料
宇和島駅からバスで5分 → 徒歩で25分