紫電改展示館は、愛媛県南宇和郡愛南町の馬瀬山公園に位置し、1980年5月1日に開館した施設です。展示館では、現存する国内唯一の旧日本海軍局地戦闘機「紫電改」が展示されています。この施設は、戦争史の一端を伝え、来館者にその歴史的意義を伝える貴重な役割を果たしています。
1978年11月、地元の漁業者が出漁中に偶然、水深約40メートルの海底に横たわる飛行機のような物体を発見しました。後の調査により、この飛行機が太平洋戦争中に使用されていた旧日本海軍の局地戦闘機「紫電改」であることが判明しました。そして翌1979年7月14日、紫電改は実に34年ぶりに海底から引き揚げられることになりました。
引き揚げられた紫電改はかなり傷んでいましたが、可能な限り不時着水没当時の姿で保存することを目的に復元作業が行われました。この作業には、紫電改を製造していた川西航空機の後身である新明和工業の協力工場「阿波機械工業」が担当し、精密な現場工事を実施しました。
紫電改展示館では、引き揚げられた紫電改の実機が展示されています。機体は経年劣化が進んでいるものの、当時の面影を色濃く残した状態で来館者の目に触れるよう配慮され、来場者に戦争の歴史や紫電改の技術的特徴を紹介しています。
紫電改展示館がある馬瀬山公園は、周辺の豊かな自然環境と相まって、歴史学習の場としてだけでなく観光スポットとしても機能しています。来館者は、自然の美しさと歴史的価値の両方を体験できる貴重な空間として、地域に愛される施設となっています。
来館者の減少や施設の老朽化に伴い、展示館の建て替えが計画されています。この計画では2026年度までの完成を目指しており、新しい施設に生まれ変わることで、さらに多くの人々に紫電改の歴史を伝える場とする意向です。
再建計画には、建設資材の価格高騰や移設費用、さらには機体の補強費用の増加といった予算面での課題が生じています。これにより、施設の規模の縮小や計画の見直しの必要性が指摘されており、検討委員会では今後も協議を進めながら計画を最適化していく予定です。
紫電(しでん)は、太平洋戦争中に開発された大日本帝国海軍の陸上戦闘機であり、水上戦闘機「強風」を陸上機に改良したものです。紫電の後期型である「紫電二一型」は、「紫電改(しでんかい)」の通称で広く知られています。正式名称はあくまで「紫電」であり、「紫電改」は二一型の別称にすぎませんが、「紫電改」の名称が後に有名になり、しばしばこちらの名が使用されます。
本来、零式艦上戦闘機(零戦)の後継としては「烈風」、局地戦闘機としては「雷電」が日本海軍の主力機となる予定でした。しかし、両機の開発が遅れたため、その間を埋める形で応急的に開発されたのが紫電です。しかし、紫電の性能が期待以上に高かったことから、雷電と烈風の実戦投入が遅れる中、紫電は実質的に零戦の後継機として採用され、戦争後期に日本海軍の主力戦闘機として活躍しました。
紫電改の生産数は約400機とされており、大きな戦局に影響を与えることはなかったものの、戦争末期に精鋭部隊である第三四三海軍航空隊「剣部隊」に集中配備され、活躍しました。そのため、戦後に紫電改は多くの漫画や映像作品で題材となり、高い知名度を持つこととなりました。また、日本海軍の戦闘機の中でも非常に優れた機体として評価され、陸軍の「疾風」と共に、戦争末期の日本軍を代表する優秀な戦闘機とされています。
紫電改の名称は、正式採用前の試作機として「試製紫電改」とされましたが、正式名称は「紫電二一型」です。昭和19年の内令兵第27号では「試製紫電改」が「試製紫電の機体改造および兵装強化せるもの」として定義され、その後、複数のバリエーションが誕生しました。
紫電や紫電改は日本海軍の搭乗員から「J」や「J改」とも呼ばれていました。三四三空の戦時日記には「紫電改」や「紫電二一型」といった記述が見られ、呼称が統一されていなかったことが分かります。また、連合軍側では紫電に「George(ジョージ)」というコードネームが付けられ、戦後にはさらに「George11」と「George21」という区別がなされました。
1941年末、川西航空機は水上機の需要が減少すると見込み、新たな機種の開発を議論しました。その中で、水上戦闘機「強風」の陸上戦闘機化が決まり、川西の菊原静男設計技師が海軍航空本部に提案したところ、技術本部長の多田力三少将から即座に承認されました。こうして、「仮称一号局地戦闘機」として紫電の試作が許可されました。
紫電の設計は、「強風」の機体を可能な限り流用することが目指されましたが、実際にはエンジンの変更や尾輪の装備に伴い、大幅な改修が必要となりました。1942年12月には試作一号機が完成し、伊丹飛行場で初飛行が行われましたが、搭載されたエンジン「誉」の不調に悩まされ、川西側は「紫電ではなくエンジンの実験」と不満を抱いていました。
紫電は「強風」の中翼配置を継承しており、そのため長い主脚が必要でした。これを二段伸縮式とすることで空間の問題を解決しましたが、試作段階では主脚の格納に時間がかかり、後に改善されたものの、着陸時には左右のブレーキの効きが異なることが多く、事故が頻発しました。1945年1月1日から8日の間に、三四三空では3日に1機の割合で脚部故障により紫電を失っています。
紫電は当初、最高速度653.8km/hを目指していましたが、実際の速度は570.4km/hに留まりました。また、上昇力や航続距離も当初の計画より低い結果となりました。この速度低下の原因としては、燃料の品質低下や機銃ポッドの設置による空気抵抗の増加が指摘されています。
紫電はその主翼形状などから水上戦闘機「強風」の設計を色濃く引き継いでおり、取付角の大きさなど、通常の戦闘機とは異なる設計が施されていました。この結果、紫電の空力性能には特異な点が多く、翼根失速による乱流が尾翼に影響を及ぼすなどの問題が生じました。
紫電改は戦後、精鋭部隊「剣部隊」での活躍が取り上げられ、漫画や映像作品の題材として多くの知名度を獲得しました。そのため、紫電改は日本の航空史において非常に重要な位置を占める戦闘機として評価されています。戦争末期における日本軍の戦闘機の中でも、紫電改と疾風は双璧をなす優秀機として知られています。
紫電改展示館は、再建を通じて戦争の歴史や平和への祈りを広く発信する施設となることが期待されています。また、地域のシンボル的存在として、多くの観光客や歴史愛好家に愛され続けるための取り組みも進められています。