港山城は、かつて伊予国(現在の愛媛県松山市港山)に築かれた山城です。この城は河野氏が率いる河野水軍の拠点として築かれました。湊山城とも呼ばれ、海に面した小丘陵に位置し、港の監視や警護を担っていた城です。
港山城は三津の港を見下ろす丘の上にあり、軍事的にも戦略的な位置にありました。特に港の警護や監視に最適な場所で、戦時には河野水軍がここから出撃していました。東西に細長く、本丸と二の丸が連なっていた城で、現在は整備が進み、往時の面影はほとんど残っていませんが、かつては海岸線が複雑に入り組み、まるで島のような地形であったと言われています。
港山城は、東西に細長く伸びた本丸と二の丸を中心とした構造を持ち、その立地は当時の海岸線が入り組んでおり、まるで島のような状態であったと伝えられています。現在は整備が進み、当時の姿をとどめることは少なくなっていますが、その歴史的役割を思い起こさせる要素が随所に残されています。
港山城の築城時期には諸説あります。河野通信が文治2年(1186年)に築いたという説や、建武年間(1334年~1338年頃)に河野通盛が風早郡河野郷から湯築城に移る際、海の守りとして築いたという説もあります。また、応仁元年(1467年)には、河野予州家の武将である河野通春が築城し、居城としたとも伝えられています。
河野氏の本宗家が居城とした湯築城から距離があったため、水軍衆と本宗家の間で内紛が発生する一因となりました。河野氏の内部対立が激化する中で、港山城は予州家の河野通春の居城として重要な役割を果たしました。
寛正6年(1465年)、予州家の勢力が弱まる中、河野通春の家臣であった重見飛騨守が港山城で討ち死にしました。続く文明14年(1482年)には、河野通春が病没し、やがて本宗家の攻撃を受けて城は落城しました。
その後、城は本宗家の手に渡り、河野氏の水軍衆が配置されました。彼らは「湊山衆」と呼ばれ、忽那氏が統率しました。この城は、伊予に侵入した大友氏や毛利氏との戦いで防衛の要として大きな役割を果たしました。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐に伴い、小早川隆景率いる伊予平定軍の攻撃を受け、港山城は落城しました。同じ年、長宗我部元親が伊予を制圧し、ほぼ四国統一を果たしていたため、城は長宗我部氏の支配下にあった可能性も指摘されています。
港山城の戦略的な地理条件は、その後も変わることなく、廃城となった江戸時代にも松山藩の船奉行や軍用船が置かれるなど、水軍の拠点として機能し続けました。
港山城の城兵たちは、毎朝三津の渡しを使って須崎の浜(現在の三津浜)に渡り、米や魚などの物資を調達していました。これが現在まで続く「三津の朝市」の始まりとされています。港山城と三津の関わりは深く、地域の生活と歴史に影響を与え続けました。
現在、港山城の跡地には井戸跡や石垣の一部が残されています。登山口には案内板が設置され、頂上までの登山道も整備されています。頂上からは、かつての城の立地条件を感じ取ることができます。
また、三津の内湾は今でも漁港として利用され、多くの漁船やレジャーボートが係留されています。造船所もあり、港山城がかつて水軍の拠点として機能していた面影を残しています。
港山城の麓に広がる三津の内湾は、現在でも漁港として活用されています。多数の漁船やレジャーボートが停泊しており、造船所も点在しています。
港山城の麓には、湊三嶋神社が鎮座しています。地元住民の信仰を集めるこの神社は、港山城と深い関わりがあったと考えられています。
港山城へのアクセスには、市営の渡し舟「三津の渡し」が利用されています。この渡し舟は港山城の麓と対岸の三津を80メートルほどの距離で結んでおり、現在でも地元の足として親しまれているほか、観光スポットとしても人気です。この渡し舟は、城の築城後に食料や物資の輸送手段として利用され始めたもので、非常に古い歴史を持っています。
港山城への最寄り駅は、伊予鉄道高浜線の港山駅です。駅から徒歩2分でアクセスでき、観光や散策に便利な場所にあります。
これらの城は港山城と同じく、伊予国にゆかりのある歴史的な城です。特に松山城と湯築城は、河野氏やその後の松山藩にとって重要な拠点であり、港山城と合わせて伊予の歴史を知る手がかりとなります。