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湯築城

(ゆづきじょう)

湯築城は、愛媛県松山市の道後公園に位置する日本の城跡です。現在も堀や土塁が残っており、歴史的な価値から国の史跡に指定されています。

湯築城の概要

湯築城は、伊予国(現在の愛媛県)における歴史的な城跡で、別名として「道後城」とも呼ばれています。築城は伊予の守護であった河野通盛(かわのみちもり)によって行われ、その後、河野氏の本拠地として栄えました。1974年に撮影された航空写真などが残っており、当時の様子を伺い知ることができます。

内堀と外堀

湯築城の特徴的な構造の一つとして、内堀と外堀が挙げられます。これらの堀は現在もその姿をとどめており、当時の防御の様子を伝えています。特に内堀は、城の中心部を守るために設けられた重要な防御設備です。

湯築城の歴史と沿革

湯築城は、建武2年(1335年)前後に河野通盛の手によって築かれました。河野氏は元々、風早郡河野郷(現在の松山市河野)に居住していましたが、築城後は湯築城を拠点としました。

南北朝時代の戦い

正平20年/貞治4年(1365年)には、河野通堯が湯築城を攻撃し、細川天竺禅門を討ち取るなど、南北朝時代の戦いの舞台となりました。その後、天文4年(1535年)頃には河野通直(かわのみちなお)によって外堀が造られ、城の防御機能がさらに強化されました。

長宗我部元親との対立

天正9年(1581年)以降、土佐国の長宗我部元親が四国征圧を目指して伊予国に侵攻し、河野氏と激しい戦いを繰り広げました。しかし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景の軍勢により、河野氏は降伏を余儀なくされ、湯築城は落城しました。

湯築城の廃城とその後

その後、天正15年(1587年)には福島正則が城主となりましたが、程なくして国分山城に居城を移したため、湯築城は廃城となりました。慶長7年(1602年)には、現在の松山城が築城され、湯築城の建材がその一部として再利用されました。

湯築城の近代化と発掘調査

明治21年(1888年)、湯築城跡は県立道後公園として整備されました。昭和28年(1953年)には愛媛県立道後動物園が開設されましたが、昭和62年(1987年)に閉鎖されました。その後、昭和63年(1988年)から湯築城跡の発掘調査が開始され、平成10年(1998年)から平成13年(2001年)にかけて、武家屋敷や土塀の復元などの整備が行われました。

国の史跡指定と日本100名城選定

平成14年(2002年)9月20日、湯築城跡は国の史跡に指定されました。さらに、平成18年(2006年)4月6日には、日本100名城の一つとして選定され、全国から多くの観光客が訪れる場所となっています。

湯築城の現地情報

アクセス

湯築城跡へのアクセスは、JR予讃線「松山」駅から伊予鉄道市内電車「道後温泉行き」で約20分、「道後公園停留場」下車、徒歩約1分の距離です。非常にアクセスが良いため、観光の際に立ち寄りやすいスポットです。

湯築城資料館

湯築城跡には、湯築城資料館が併設されています。開館時間は9:00から17:00で、月曜日(祝日の場合は翌日)は休館日となっています。入場料は無料で、湯築城跡の歴史や文化について学ぶことができます。また、湯築城跡にはボランティアガイドも常駐しており、詳細な説明を受けることも可能です。

湯築城の周辺情報

湯築城跡の周辺には、観光名所が数多く存在します。例えば、道後温泉や伊佐爾波神社、湯神社などがあり、湯築城跡を訪れた際には、これらの場所にも足を運ぶことをおすすめします。

湯築城の見どころまとめ

湯築城は、伊予の歴史を深く知ることができる貴重な城跡です。堀や土塁など、当時の面影を残す遺構はもちろん、復元された武家屋敷や土塀も見どころの一つです。ぜひ、愛媛県松山市を訪れた際には、湯築城跡に立ち寄り、その歴史と文化に触れてみてください。

Information

名称
湯築城
(ゆづきじょう)

松山・道後温泉

愛媛県