栄養寺は、愛媛県伊予市に所在する浄土宗の寺院であり、京都市にある知恩院の末寺です。山号は泰昌山安楽院(たいしょうざんあんらくいん)で、伊予市の歴史と深く関わりながら、宮内家の菩提寺としても重要な役割を果たしています。
栄養寺は、1637年(寛永14年)に開山されました。寺の開山を行ったのは、豊臣秀頼の子とされる苦厭上人(くえんしょうにん)で、彼は大阪の陣後、難を逃れて伊予国にたどり着いたと伝えられています。寺の開基は、伊予国灘町の開拓者である宮内清兵衛正重(みやうちせいべえまさしげ)で、彼とその家族の菩提寺として建立されました。
栄養寺の開祖である苦厭上人は、1608年に生まれ、豊臣秀頼の子・国松丸またはその弟とされる人物です。大阪の陣後、家臣たちによって難を逃れ、伊予の各地を転々としながら最終的に出家しました。彼は豊臣家の菩提を弔い、衆生済度に努めたとされています。
栄養寺の所在地である灘町は、1636年(寛永13年)に宮内九右衛門(みやうちくろうえもん)とその弟・清兵衛によって開拓されました。彼らは大洲藩の許可を得て、私財を投じてこの地を開発し、特別な自治を任された在郷町として栄えました。灘町の町割りは、全国的にも珍しい大きな区画で形成されており、町の歴史的価値を今に伝えています。
栄養寺という名称は非常に珍しく、「栄養」という言葉が使われた最古の例とされています。この「栄養」という名称の背景には、栄養学の先駆者である佐伯矩(さえきただす)博士の影響があります。佐伯博士は幼少期に栄養寺の近くに住んでおり、よく寺を訪れていたと言われています。彼は当初「営養」という文字が使われていたものを「栄養」の方が適切であるとして文部省に提言し、これが採用されて大正9年に「栄養」の表記が公用語として広く使われるようになりました。
栄養寺の山門は、1845年(弘化2年)に建立された歴史的な建造物で、伊予市の指定景観重要建造物第2号に指定されています。この門は、時を超えて今も当時の姿を保っており、寺院の荘厳な雰囲気を伝えています。また、境内には宮内家の先祖である清兵衛夫婦や兄・九右衛門、そして兄弟の父である庄左衛門の墓碑が並んでおり、灘町の開拓者たちの足跡を感じることができます。
栄養寺の境内には、多くの著名な人物が眠っています。正岡子規の書道の師であり、漢学者として知られる武知五友(たけちごゆう)や、宮内柳庵(みやうちりゅうあん)、陶惟貞(すえこれさだ)、そして俳人の仲田蓼邨(なかたりょうそん)の墓が残されています。彼らは、それぞれの分野で大きな影響を与えた人物であり、栄養寺の境内は歴史的な文化人たちの功績を伝える場所でもあります。
栄養寺には、栄養学の創始者である佐伯矩博士を顕彰する碑も建立されています。さらに、佐伯博士自らが描いた扁額が現在も保存されており、彼の足跡を感じることができます。栄養寺は、歴史とともに地域の文化的遺産を保存する役割を果たし続けています。
栄養寺は、愛媛県伊予市の中心市街地に位置しており、長い歴史を持つこの寺は、地域の人々にとって大切な場所です。宮内家の菩提寺としての役割だけでなく、歴史的な建造物や文化財としてもその価値が認められており、現在も多くの参拝者や観光客が訪れています。栄養寺の存在は、伊予市の歴史や文化の象徴であり、地域の誇りでもあります。