大宝寺は、愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院です。山号は古照山で、正式には「古照山 薬王院 大宝寺」と称されています。本尊は阿弥陀如来坐像で、これは国の重要文化財に指定されています。また、本堂は愛媛県内で最も古い木造建築であり、国宝として大切に保護されています。
大宝寺の起源は飛鳥時代の大宝元年(701年)にさかのぼります。地元の豪族であった小千(越智)伊予守玉興(おち いよのかみ たまおき)によって創建されたと伝えられています。寺号の「大宝寺」は、寺が建立されたとされる大宝元年に由来しています。
江戸時代に入ると、大宝寺は松山藩主の祈願所として重要な役割を果たすようになります。特に、松平氏4代藩主である松平定直(まつだいら さだなお)は、貞享2年(1685年)に本堂の修理を行い、寺の維持・発展に努めました。このように、藩主の庇護を受けながら大宝寺はその歴史を重ねてきました。
大宝寺には「うば桜伝説」と呼ばれる美しい物語が伝わっています。この伝説は「角木長者伝説」とも呼ばれ、昔この地に角木長者と呼ばれる豪族が住んでいたことに由来します。長者には子供がなく、薬師如来に祈りを捧げたところ、娘が授かりました。娘は「露(つゆ)」と名付けられ、大切に育てられました。
露は乳母のお袖(おそで)によって育てられましたが、ある日お袖の乳の出が悪くなってしまいます。再び薬師如来に祈ると、乳が出るようになりました。感謝の気持ちとして、長者はお堂を建立しました。これが大宝寺の始まりとされています。
露が15歳になった頃、重い病にかかりました。お袖は自分の命と引き換えに露を救ってほしいと薬師如来に祈りました。その願いは叶い、露の病気は快癒しました。しかし、その祝宴の席でお袖は病に倒れ、薬も飲まず治療を拒み、亡くなってしまいました。亡くなる直前、お袖は「お薬師様へのお礼として桜の木を植えてください」と言い残しました。長者は約束通りお堂の前に桜の木を植え、その桜は枝が伸びないうちから幹に2~3輪の花を咲かせました。その花はお袖の乳房のような形で、母乳のような色だったと言われています。
この伝説から、母乳の出に悩む女性たちが大宝寺を訪れるようになりました。この話は明治時代、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって英語に翻訳され、彼の著作『怪談』にも収められています。
大宝寺本堂
大宝寺の本堂は鎌倉時代前期に建てられたもので、愛媛県内で最も古い木造建築として知られています。一重、寄棟造(よせむねづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)で、桁行3間、梁間4間の構造です。間口・奥行ともに約9メートルで、平面は正方形をなしています。本堂の内部は中央部の1間四方を内陣、その外側を外陣とし、平安時代末期に見られる阿弥陀堂の形式を踏襲しています。
堂内の厨子(ずし)は室町時代の作で、正面3間、軒唐破風(のきからはふ)付き、こけら葺(ぶ)きです。厨子は、貞享2年(1685年)に再興された際の修理棟札(しゅうりむなふだ)とともに国宝に指定されています。この本堂は毎年3月28日に一般公開され、多くの参拝者が訪れます。
木造阿弥陀如来坐像
像高68.5センチメートルの一木造りで、平安時代前期の作とされています。この阿弥陀如来坐像は本堂に安置されており、明治34年(1901年)に国の重要文化財に指定されました。
木造釈迦如来坐像
像高83.9センチメートルで、こちらも一木造りの平安時代前期の作品です。阿弥陀如来坐像とともに本堂に安置されており、明治34年(1901年)に重要文化財に指定されています。
木造阿弥陀如来坐像(本尊)
本堂の厨子に安置されていた当寺院の本尊であるこの像は、像高135.7センチメートルで寄木造りです。平安時代末期の作とされ、長らく秘仏として薬師如来として信仰されてきました。この阿弥陀如来坐像も昭和32年(1957年)に重要文化財に指定されました。
大宝寺へは、伊予鉄バスの10番線津田団地行に乗り、「大宝寺口」停留所で下車すると便利です。
大宝寺の近くには、朝日八幡神社があり、こちらも地域の歴史や文化を感じられるスポットです。
大宝寺から少し足を延ばすと、松山総合公園があり、美しい自然と共に散策を楽しむことができます。