松山市立子規記念博物館は、愛媛県松山市にある俳人正岡子規を記念した博物館です。1981年4月2日に開館し、松山市立の文化施設として広く知られています。この博物館は、正岡子規の生涯や業績を紹介するだけでなく、松山の歴史や文化に触れることができる貴重な場所です。
1970年代後半、高度経済成長が終焉を迎え、松山市は文化的な成熟期を迎えました。こうした中で、当時の市長であった中村時雄氏は、工業化から文化振興へと政策の軸足を移し、文化施設の建設を推進しました。子規記念博物館もこのような文化政策の一環として設立されました。
博物館は地下1階から地上4階までの建物で、各階にさまざまな展示が行われています。2階の「展示第1室」では「道後・松山の歴史」や「子規とその時代」をテーマにした展示があり、子規が生きた時代背景や彼の活動を紹介しています。3階の「展示第2室」では「子規のめざした世界」をテーマに、彼が追求した文学の世界を深く掘り下げています。
博物館が開館した当初、隣接して愛媛県立道後動物園がありましたが、現在は道後公園として整備されており、庭園や湯築城史跡公園として地域住民や観光客に親しまれています。子規記念博物館は、開館以来、多くの来館者を迎えており、2015年6月には累計450万人を突破しました。さらに、2017年と2024年には常設展示の大規模なリニューアルが行われ、訪れる人々により充実した展示内容を提供しています。
正岡子規(まさおか しき、1867年10月14日 - 1902年9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家で、本名を正岡常規(まさおか つねのり)といいます。幼名は處之助(ところのすけ)で、後に升(のぼる)と改名しました。子規は、俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多岐にわたる創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を与えた明治を代表する文学者の一人です。
子規は、伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)で、松山藩士の長男として生まれました。1872年に父が死去し、子規は幼くして家督を継ぎました。彼は外祖父である大原観山の私塾で漢書の素読を学び、その後、末広小学校や勝山学校に通いました。少年時代には、漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作成し、試作会を開くなど文学への関心を深めていきました。
1883年、旧制松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)を中退し、上京して漢文や英語を学びました。1884年には東大予備門(現:東京大学教養学部)に入学し、文学への興味から国文科に転科します。この頃から「子規」と号し、俳句の創作を開始しました。彼は、新聞『日本』の記者として活動する傍ら、俳句の革新運動を推進し、「獺祭書屋俳話」を連載して俳壇に大きな影響を与えました。
俳句のみならず、短歌の分野でも革新を図り、「歌よみに与ふる書」を発表しました。従来の『古今集』の形式に縛られた和歌を批判し、『万葉集』を高く評価することで、短歌の新しい方向性を示しました。彼の活動は、伊藤左千夫や長塚節らの手によって『アララギ』として発展し、短歌結社としての礎を築きました。
子規は、晩年、病床に伏しながらも『病牀六尺』を書き、死に臨む自らの肉体と精神を客観的に見つめた優れた作品を残しました。彼の病床日記『仰臥漫録』は現在、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に所蔵されています。1902年9月19日、子規は静かに息を引き取り、彼の遺言に従い、田端の大龍寺に葬られました。彼の墓は現在も大龍寺にあり、多くの人々が訪れています。
2階の展示室では「道後・松山の歴史」や「子規とその時代」をテーマに、子規の生涯や業績、そして彼が影響を受けた松山の歴史についての展示が行われています。子規がどのような環境で育ち、どのようにして文学の世界に入っていったのかを知ることができます。
3階の展示室では、「子規のめざした世界」をテーマに、子規の文学に対する考えや彼が残した作品の数々が紹介されています。彼が俳句や短歌に込めた思いを深く理解できる展示内容となっており、彼の革新精神や文学に対する情熱を感じ取ることができます。
松山市立子規記念博物館は、道後公園の近くに位置しており、公共交通機関でも訪れやすい場所にあります。周辺には、道後温泉や湯築城史跡公園など観光名所も多く、観光とあわせて訪れるのに最適です。ぜひ、正岡子規の世界に触れ、松山の歴史と文化を感じてください。