三津の渡しは、愛媛県松山市の三津浜港(松山港の三津浜地区)内で運航されている松山市営の渡し舟です。正式名称は「松山市道高浜2号線」という公道であり、四国八十八景の55番に選定されています。約80メートルという短い航路を運航し、通勤・通学のために利用される、市民の生活に密着した交通手段です。
三津の渡しは、三津浜の西性寺前と港山地区との間の約80メートルの距離を、全長約9メートル、定員約10名の小型動力船で結んでいます。運航時間は7時から19時までで、年間を通じて無休で運行されています。この渡し舟は公道としての役割を果たしているため、運賃は無料で、車両は積載できませんが、自転車の積み込みは可能です。
音戸の渡し(令和3年10月に廃止)が120メートルで「日本一短い渡し」とされていましたが、実際には三津の渡しの方が短く、その距離はわずか80メートルです。運航は定期ではなく、反対側に渡し舟が停泊している場合は、堤防に設置されている呼び鈴を押すか、手を挙げることで渡し舟が迎えに来てくれる仕組みです。このユニークな運航スタイルは、住民にとって便利で親しみやすい交通手段となっています。
三津の渡しの歴史は、港山地区側にあった港山城の築城時期にまで遡ります。1467年、河野氏分家の河野予州家・河野通春が港山城を拠点とした際、物資輸送と城兵の移動手段として、須崎の浜への往来にこの渡しが利用され始めたと伝えられています。その後、豊臣秀吉の四国征伐によって港山城は廃城となりましたが、松山藩の水軍が三津浜に置かれ、渡し舟は行商人や地元民の足として引き続き利用されました。
渡し舟は、「須崎の渡し」「三津の渡し」「古深里の渡し」「港山の渡し」などと呼ばれ、須崎の魚市場の賑わいと共にその利用が続けられていました。1795年には俳人・小林一茶が港山側にあった古深里洗心庵での句会に参加するため、この渡しを利用したことが記録されています。
大正時代までは、渡し舟は水竿を使って操られていましたが、その後は長い間手漕ぎの時代が続きました。1970年に動力船が導入され、現在の形となりました。この渡し舟は市民にとって重要な交通手段であり、地域の歴史と文化を感じさせる存在です。
松山市を舞台にした映画『がんばっていきまっしょい』では、主人公が通学中にこの渡し舟を利用するシーンが描かれており、地元の生活に密着した交通手段としての姿が紹介されています。地元住民だけでなく、観光客にとっても、三津の渡しは松山の風情を味わえるユニークな体験となっています。