四十島は、瀬戸内海に浮かぶ小さな無人島で、愛媛県松山市の高浜港から南へ約700メートルの位置にあります。この島は、興居島の黒崎と四十島瀬戸と呼ばれる海峡を挟んで対峙し、別名「ターナー島」とも呼ばれます。その名は、夏目漱石の小説『坊っちゃん』に由来し、作中では「青嶋」として登場します。地番は松山市高浜町一丁目乙115番地で、面積は約0.0002平方キロメートル(2006年の愛媛県の資料では1,199平方メートル)です。
四十島は、花崗閃緑岩からなる3つの岩礁から構成されており、その表面はほとんどが岩肌で覆われています。植生は少なく、わずかに松の木が生えているのみです。周辺海域は南北方向に急流が走り、海の難所として知られています。
四十島は「ターナー島」とも呼ばれますが、これは夏目漱石の小説『坊っちゃん』での描写に基づいています。小説の中で、主人公「坊っちゃん」と教頭「赤シャツ」が船釣りに出た際、赤シャツがこの島を見て「ターナーの絵のようだ」と形容し、「野だ」が「ターナー島と呼びましょう」と応じたことから、この名が生まれました。作中での呼称は「青嶋」ですが、島の印象的な景観が、イギリスの風景画家ターナーの作品を彷彿とさせることから、地元でも「ターナー島」と呼ばれるようになりました。
漱石だけでなく、俳人・正岡子規もこの島を題材にした句を詠んでいます。当時、島は松が茂り、青々とした景観を呈していましたが、後に松くい虫の被害により1977年には全滅してしまいました。
1977年に松が全滅した後、地元の元小学校教員である篤志家が中心となり、島への松の植栽活動が始まりました。この活動は幾度となく台風の被害に遭いながらも続けられ、2006年には中央および北の岩礁に24本の松が根付いていました。しかし、四十島の地質は脆く、波浪や急流の影響を受け続けており、島の形状は年々細くなってきています。
こうした活動が評価され、2005年には四十島の所有権が愛媛県から松山市に移されました。その後、2006年11月には文化審議会によって四十島が登録記念物として答申され、2007年2月に国の登録記念物となりました。この登録によって、四十島は文化的価値を有する島として広く認識されるようになりました。
現在も四十島は、松山港(松山観光港)に入出港する旅客船やフェリーからその姿を望むことができます。観光客にとっては、漱石や子規の文学を感じられる場所として人気があります。また、島の保護活動も引き続き行われており、松山市や地元の有志たちが協力して島の景観と自然環境を守る努力を続けています。
四十島は無人島であり、定期的な渡航手段はありませんが、松山港からの船旅の途中でその姿を見ることができます。特に、夏目漱石や正岡子規の文学に興味がある方にとっては、彼らが愛した景色を間近で感じることができる貴重な場所です。
四十島は、単なる小さな無人島に留まらず、文学的・文化的な価値を持つ特別な場所です。松山市や地元の人々によって保護され、今後もその美しい景観と歴史が引き継がれていくことでしょう。夏目漱石や正岡子規が詠んだ四十島の景色を、現代の私たちも目にすることができるということは、文化遺産として非常に意義深いことです。ぜひ、松山を訪れる際には、四十島の魅力に触れてみてください。