高忍日賣神社(高忍日売神社)は、愛媛県伊予郡松前町に位置する由緒ある神社です。この神社は『延喜式神名帳』にも記載があり、全国で唯一高忍日賣大神を奉斎しています。特に、産婆や乳母の祖神として助産師や教育関係者などから広く崇敬を集めています。神社境内には、助産師の村松志保子氏を顕彰する「母子と助産師の碑」があり、毎年3月8日に関連イベントが開催されます。神紋には「十六弁の菊」と「五七の桐」が使用され、例祭は10月13日から15日に行われます。
高忍日賣神社の主祭神は、高忍日賣大神(たかおしひめのおおかみ)で、産婆や乳母の祖神としての信仰が特に厚いです。これに加えて、天忍男命(あめのおしおのみこと)、天忍女命(あめのおしひめのみこと)、天忍人命(あめのおしひとのみこと)が配祀されています。
この神社に伝わる神話の中には、初代神武天皇の父である日子波限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の誕生にまつわる伝承が残されています。
神話では、日子穂穂手見命と豊玉毘売命が船で海を渡っている最中に、豊玉毘売命が急に産気づき、近くの海岸で出産することになります。しかし、多くの蟹が産屋に侵入し難産となりました。このとき、豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と唱えたところ、高忍日賣大神が顕現し、天忍日女命や天忍人命、天忍男命を遣わしました。天忍日女命は産婆の役目を果たし、他の神々は蟹を掃き飛ばすなどして、無事に安産へと導きました。
この神話から、高忍日賣大神は安産や産婆の神として崇敬されるようになり、多くの人々から信仰を集めています。
創祀年代は不明ですが、神社の周辺地域は古くから開けており、大小の古墳群や祭祀遺跡が見つかっています。当社は古代から皇室の崇敬を受けており、聖徳太子が伊予郡を巡った際には神社を訪れ「神号扁額」を奉納したとされています。また、奈良時代には、当社が開発領主として周辺地域を開墾し、広大な神域を形成していました。
平安時代には、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』巻九・十に、当社が官社として記載されています。また、当時の神階は正三位であり、勅使や国司が度々参拝しました。鎌倉時代には源頼朝から神領76町を寄進され、社の繁栄が続きました。月3回の市が神社の夷子社で開かれ、多くの商人や参詣者で賑わいました。
室町時代には市が月6回に増え、神社が座元となって商人たちを保護し、全国各地との交易も盛んになりました。しかし、戦国時代には神領が減少し、神社周辺の商業活動も衰退しました。
江戸時代には、松山藩主である加藤嘉明や蒲生忠知などが篤く崇敬し、安産や五穀豊穣の祈願が行われました。また、神社は藩の祈祷所として松山藩の鎮護社となり、伊予郡総鎮守としても重要な役割を果たしました。この時期、全国で唯一高忍日賣大神を祀る神社として「正一位」の神階と「全国唯一社」の称号を朝廷から賜りました。
神社の境内には、江戸時代から続く拝殿や本殿、神門、大鳥居などが立ち並んでいます。また、「四季農耕図」などの珍しい絵馬も多数掲げられています。藩主代官詰所も残っており、江戸時代には「藩主御成の間」として使用されていました。
高忍日賣神社では、年間を通じて様々な祭事や行事が行われています。以下はその主な行事です:
高忍日賣神社の境内には、さまざまな神々を祀る境内社が点在しています。以下に代表的な境内社を紹介します:
「うぶすな様」として親しまれている産砂神社は、円満石という丸石を持ち帰ると願いが叶うとされ、願いが叶った後には倍量にしてお礼参りをすると、さらに幸福が訪れると信じられています。
仁徳天皇を祀る神社です。
蛭子命を祀る神社で、高忍日賣神社の鬼門を守護するために建立されました。
高忍日賣神社はJR予讃線の北伊予駅から徒歩15分の距離にあります。愛媛県伊予郡松前町徳丸387に位置しています。