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今治城

(いまばりじょう)

堀へ船で入ることができる海城

1604年に城づくりの名人・藤堂高虎が築いた城。
全国的にもまれな三重の堀に海水を引き入れた海岸平城で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。

日本三大水城の一つに、高松城(香川県高松市)、中津城(大分県中津市)と共に数えられている。

石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残し、1980年に5層6階の天守が再建された。
天守閣は展望台、展示室になっており、武具、甲冑、刀剣など2,500点を常設している。

最上階からは、しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができる。 

御金櫓として東隅櫓や、二の丸西隅に山里櫓が再建され、鉄御門が石垣や多聞櫓5棟ともに復元された。

# 今治城の歴史と現状 ## 今治城の概要 今治城(いまばりじょう)は、四国の愛媛県今治市通町三丁目にあった日本の城で、昭和28年(1953年)10月9日に愛媛県史跡に指定されました。別称は「吹揚城(吹上城)」です。 ## 歴史・沿革 ### 江戸時代 慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城が始まり、慶長9年(1604年)に完成しました。渡辺了が普請奉行として知られています。今治城は、効率的な都市経営を目指して築かれ、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造を持ち、海上交通の要所として重要な役割を果たしました。日本三大水城の一つに数えられています。 今治城は非常に広大な造りで、二之丸には藩主館、中堀以内には側近武士の屋敷、外堀以内には侍屋敷が配置され、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所もありました。慶長14年(1609年)には、高虎が伊勢国津城に移封され、天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わります。 寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって松平(久松)定房が今治城に入城しました。その後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となり、江戸260年間広大な城郭が保たれましたが、明治維新以後の明治2年(1869年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却されました。 ### 現代 今治城の石垣と内堀はほぼ江戸時代の姿を残しています。昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられ、昭和60年(1985年)には東隅櫓が御金櫓として外観復元されました。平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が外観復元され、平成18年(2006年)には日本100名城(79番)に選定されました。平成19年(2007年)には鉄御門が外観復元され、二の丸には藤堂高虎の像が建立されました。 ## 石垣・内堀の改修 近代以降、石垣・内堀の一部で改修工事が行われています。特に御金櫓直下の石垣は改修によって本来存在しなかった反りが施されています。また、鉄御門の復元に伴い、門を構成する石垣も発掘調査に基づいて復元されていますが、場内公園への緊急車両の乗り入れのため、史実より高くなっている部分があります。 ## 天守の存否 今治城の天守が築城当時に存在したかどうかは確定されていません。一次資料が不足しており、敷地内に天守の遺構が確認されていないためです。ただし、『宗国史』には「城中に五層の高楼を建て」との記述がありますが、具体的な裏づけがないため結論には至っていません。 また、藤堂高虎によって今治城の天守が上野城に移築され、その後亀山城に移されたという説もあります。この説に基づけば、天守は慶長9年(1604年)に竣工し、慶長15年(1610年)ごろに移築されたことになります。 ## 再建天守 今治城の再建天守は、史実に基づかない模擬天守です。再建時には亀山城天守の外観を参考にしましたが、実際には異なる構造や意匠が施されています。再建天守は本丸の中央付近に建てられ、最上階からは瀬戸内海やしまなみ海道の来島海峡大橋を眺望できます。

Information

名称
今治城
(いまばりじょう)
リンク
公式サイト
住所
愛媛県今治市通町3-1-3
電話番号
0898-31-9233
営業時間

9:00~17:00

定休日

12月29日~12月31日

料金

一般:520円
学生:260円
高校生以下または18歳未満:無料
高齢者(65歳以上):420円

駐車場
56台 有料
アクセス

今治駅からバスで5分 *今治営業所行きバスにて「今治城前」下車、徒歩ですぐ
今治港から徒歩で15分
しまなみ海道・今治ICから車で10分
今治小松道・今治湯ノ浦ICから車で15分

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