南光坊は、愛媛県今治市別宮町に位置する真言宗御室派の寺院で、別宮山(べっくさん)金剛院という山号を持っています。四国八十八箇所霊場の第55番札所として、多くの参拝者が訪れる歴史あるお寺です。本尊は大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)で、四国八十八箇所の中で唯一この如来を本尊としている寺院です。
南光坊のご詠歌は、「このところ三島に夢のさめぬれば 別宮とても同じ垂迹(すいじゃく)」です。本尊真言は、「おん あびらうんけんばざらだと ばん」と唱えます。
南光坊の創建は推古天皇の御代(594年)に遡ります。この頃、大三島の東海岸側に大山積神社の元となる遠土宮(おんどのみや)が祀られました。その後、大宝元年(701年)に大三島の西海岸に大山積神社が建立されました。
一方、文武天皇の勅命により、大宝3年(703年)に大山積神が現在の愛媛県今治市に勧請され、社殿が造営されました。これが「日本総鎮守三島地御前」として祀られる別宮となり、南光坊はその一坊として建立されました。別宮は和銅5年(712年)に完成し、その後、正治年間(1199年 - 1201年)に大三島の24の僧坊のうち、南光坊を含む8坊が別宮の別当寺大積山光明寺の塔頭(たっちゅう)として移されました。
弘法大師(空海)が弘仁年間(810年 - 824年)に四国巡錫の際、南光坊に立ち寄り、法楽をあげられたと伝えられています。これは南光坊の歴史において重要な出来事であり、四国霊場の一つとしての位置づけが強化されました。
天正年間(1573年 - 1592年)、伊予の地を襲った長宗我部元親の四国平定の際に、南光坊を含む8坊すべてが焼失しました。しかし、慶長5年(1600年)、藤堂高虎が今治藩主に任ぜられると、南光坊は再興され、今治藩の祈祷所として祭典料を賜ることとなりました。
江戸時代には今治藩主である久松家からも尊信を受け、広大な寺域を誇りました。寛雄(かんゆう)住持の時代には、讃岐の金毘羅大権現を勧請し、金毘羅堂が建立されました。
また、江戸幕府による『寺院本末帳』には、南光坊が伊予国の仁和寺末寺であり、安養寺という末寺を有していることが記され、格式の高い寺院として栄えました。仁和寺からは「院家」の称号も賜り、その地位が認められました。
明治時代に入り、神仏分離令に従い、南光坊の本尊が大通智勝如来へと改められました。これにより、大山積神(大山積大明神)から分離独立し、四国八十八箇所霊場の札所としての位置を確立しました。さらに、明治27年(1894年)には山号を「大積山」から「別宮山」へと改称しています。
大正5年(1916年)には、大師堂が建造され、長州大工の建築技術が結集された建造物として高い文化的価値を持つと評価されています。しかし、第二次世界大戦中の今治空襲では、本堂や本尊を含む多くの伽藍が焼失し、戦後の復興は困難を極めました。
昭和56年(1981年)に本堂が再建され、平成3年(1991年)には薬師堂が再建されました。平成10年(1998年)には山門鐘楼堂が完成し、平成14年(2002年)には四天王像が安置されました。さらに、平成22年(2010年)には大師堂が改修されるなど、徐々に復興が進められました。
平成25年(2013年)、南光坊は真言宗御室派に復帰し、仁和寺の末寺となりました。また、平成26年(2014年)には、秘仏であった本尊大通智勝如来坐像が特別開帳され、多くの参拝者が訪れました。戦火で失われた本来の本尊不動明王立像も、持仏堂の再建時に元の姿に近い形で造られています。