満願寺は、愛媛県今治市朝倉にある寺院で、高野山真言宗に属しています。山号は金毘羅山で、本尊は薬師如来です。満願寺は、新四国曼荼羅霊場の第38番札所と、四国三十六不動尊霊場の第21番札所として知られています。
満願寺の御詠歌は以下の通りです:
「思うこと 伊予いよ願え 満願寺 あらたにあたふ 黄金八千代に」
また、満願寺には「大光明童子」という童子が祀られており、童子真言は「のうまく さまんだかんまん きりく」となっています。
満願寺の境内は、頓田川に架かる千歳橋を渡った霊仙山の南麓に位置しています。本堂は標高42m、金毘羅殿は60.5m、大師堂は90mの高台に階段状に並んでおり、参拝者は階段を上って各堂を巡ることができます。
満願寺は、古代には薬師信仰、近世には金毘羅大権現信仰が篤く、地域に根差した古刹です。寺の起源は、村人が谷で光り輝くものを見たという伝説に基づいています。この光を祀ったのが始まりで、それは金毘羅殿に祀られている秘宝とされていますが、今では誰もその正体を知りません。
寺の歴史は、大宝元年(701年)に遣唐使として中国に渡り、帰国後に奈良の大安寺で三論宗を広めた道慈律師が天平6年(734年)に当山で薬師如来の開眼法要を行ったことに始まるとされています。
戦国時代には、霊仙山城主である中川山城守親武の祈願所として栄えましたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐の際に霊仙山が落城し、満願寺も焼失しました。その後、金毘羅大権現を護り神として祀り、神仏混交の寺として復興しました。
明治時代の神仏分離令の際、満願寺もその影響を受けましたが、住職の恭恵が機転を利かせ、本尊を入れ替えるなどして寺を守り抜きました。以後、満願寺は信仰を集め、現在まで続いています。
令和3年(2021年)には、本尊である薬師如来と金毘羅大権現の33年に一度の開帳が行われ、それに合わせて全堂の開帳も実施されました。
寺の入口に立つ山門は仁王門で、参道の始まりを告げる重要な門です。
昭和28年に建立された英霊堂は、戦没者の霊を祀っています。
弘化3年(1846年)に創建された絵馬堂は、令和3年に再建されました。絵馬が奉納され、参拝者が願いを込める場です。
持仏堂には阿弥陀如来立像(鎌倉時代の慶派による作)が祀られ、観音・勢至菩薩立像がその両脇に並びます。また、地蔵菩薩立像や客仏の阿弥陀如来立像も同じく安置されています。
本堂には薬師如来立像(平安時代の作)が祀られています。また、十二神将や日光・月光菩薩立像も本堂内に納められています。令和3年の御開帳に合わせて修復が行われました。
護摩堂には不動明王坐像が祀られており、この像は江戸時代の作です。堂は昭和63年に改築されました。
鐘楼堂は元禄3年に再建されましたが、戦時供出で鐘を失いました。昭和23年に再建された新しい鐘が現在使われています。
弘化元年(1844年)に再建された金毘羅殿は、拝殿・釣殿・神殿の権現造りです。金毘羅大権現の像は行者姿で座しており、等身大の半跏趺坐像です。讃岐の松尾寺金光院が認めた金毘羅殿であるとの木札も納められています。
大師堂の遥拝所は金毘羅殿の脇に位置し、ここから200mほどの石段を上ると大師堂があります。弘法大師像が祀られており、奥の院として参拝者を迎えています。
境内には著名な俳句の句碑が点在しています。例えば、森白象や松尾芭蕉、富安風生の句がそれぞれの場所に刻まれ、風情を感じさせます。
満願寺には、斎藤実盛公供養塔などの文化財があります。これらの石塔は鎌倉時代後期に建立されたもので、昭和55年に県指定文化財となりました。
木造阿弥陀三尊立像や木造薬師如来立像が今治市の指定文化財となっています。これらは平成13年に指定されました。
満願寺の境内には、エドヒガンと山桜の交配種である「マンガンジザクラ」があります。この桜は宮島大聖院にも苗木が贈られ、その美しい姿が広く知られています。
満願寺には無料の駐車場があり、参拝者は自由に利用できます。