東円坊は、愛媛県今治市大三島町宮浦に位置する寺院で、歴史と文化に深く根ざした場所です。本尊は薬師三尊であり、大山祇神社の祭神である大山積神の本地仏である大通智勝如来が古くから鎮座しています。
東円坊は、かつて神仏習合の象徴的な存在であった寺院で、現在は神社と分離しています。本尊の大通智勝如来は、大山祇神社に祀られていた本地仏で、神仏分離の際に東円坊に移された古仏です。その由来から、神社と密接な関係を持ち続けてきましたが、現在では独立した寺院として信仰を集めています。
大通智勝如来は、大山祇神社の祭神である大山積神の本地仏として位置づけられています。大山積神の娘である木花開耶姫(このはなのさくやひめ)は、天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻であり、大通智勝仏には16人の王子がいるとされ、その末子が釈迦であると伝えられています。このことから、天照大神が大日如来に相当し、その次に尊い仏として大通智勝仏があてられたとされています。
東円坊は、かつて四国遍路の札所としても重要視されていました。承応2年(1653年)に澄禅が記した『四國辺路日記』では、今治の別宮を参拝後に「本式は遍路なればその嶋に渡る、此に札を納めるは略式なり」と記されており、また、貞淳2年(1685年)に真念が刊行した『四国遍路道指南』にも、別宮は三島ノ宮の前札所と記されています。これらの記録から、大三島の三嶋大明神に参拝することが正式な四国遍路であり、東円坊もその一部であったことがわかります。
東円坊の創建は、保延元年(1135年)に遡ります。河野為澄の次男・妙尊が役小角(えんのぎょうじゃ)の法を学び、河野一族の婦人たちの支援を受けて社辺に一宇の寺塔を建立したことが始まりとされています。妙尊の子が「東円坊」を名乗ったことが現在の名称の由来です。
東円坊は、神仏習合時代に存在した神宮寺24坊の一つであり、その中でも重要な役割を果たしていました。正治年間(1199年 - 1201年)には、24坊のうち8坊が四国本土の別宮に移転し、残りの16坊は天文5年(1577年)の記録では4坊に減少していました。明治時代の神仏分離令の際にも、東円坊だけが残り、現在の寺院として存続しています。
明治初期の神仏分離令によって、東円坊は大山祇神社から独立し、その際に大通智勝如来が当坊に移されました。これにより、東円坊は大山祇神社と完全に分離し、独自の寺院としての歴史を歩み始めました。2019年には本堂が取り壊され、再建工事が行われ、2020年5月15日に新たな本堂が完成しました。これにより、大通智勝如来をはじめとする多くの仏像が新しい本堂に移され、信仰の場として再び多くの参拝者を迎え入れています。
東円坊の伽藍は、再建された本堂を中心に構成されています。本堂には、中央に大通智勝如来坐像が安置されており、向かって右側には薬師如来坐像と日光菩薩立像・月光菩薩立像が祀られています。左側には釈迦如来坐像が安置されており、それぞれが神聖な空間を作り出しています。また、庫裡(くり)も併設されており、寺院の運営や僧侶の生活に利用されています。
東円坊には、いくつかの重要な文化財が伝わっています。その中でも、鈸子(ばっし)1対と銅鑼(どら)1口は、特に貴重なもので、鈸子のうち1枚と銅鑼には正慶元年(1332年)に俊海が奉納した刻銘が残されています。これらは、2019年7月23日に重要文化財として指定されました。
東円坊には、今治市指定の有形文化財も数多く存在します。木造金剛界大日如来坐像は、伝・大通智勝如来とされ、元徳2年(1330年)4月の銘があり、仏師院吉によって制作されたといわれています。その他、木造胎蔵界大日如来坐像や木造南無太子立像、木造薬師如来三尊像などがあり、これらはすべて昭和55年2月7日に指定されました。
東円坊は、大山祇神社との深い歴史的な繋がりを持ち、神仏分離令を経て独自の寺院としての歴史を歩んできました。古くから四国遍路の一部としても重要視され、多くの巡礼者に信仰されてきました。現在でも、再建された本堂を中心に多くの参拝者を迎え、地域の信仰の中心としてその役割を果たしています。文化財としても貴重な遺産を持つ東円坊は、今後もその歴史と文化を伝えていく重要な寺院であり続けるでしょう。