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大山祇神社

(おおやまづみ じんじゃ)

大山祇神社は、愛媛県今治市大三島に位置する、日本でも特に歴史深い神社のひとつです。神社は式内社(名神大社)であり、伊予国の一宮としても知られています。現在は神社本庁の別表神社に指定され、また「日本総鎮守」とも称される由緒ある神社です。

概要

全国にある大山積神を祀る神社の総本社であり、主祭神である大山積神は「三島大明神」としても知られています。日本全国に存在する三島神社は、この大山祇神社から勧請されたとされています。大山祇神社は、瀬戸内海に浮かぶ大三島の西側、鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)を神体山とする場所に鎮座しています。

神社の役割と歴史的背景

大山祇神社は山の神、海の神、そして戦いの神として、歴代の朝廷や武将から深い崇敬を受けてきました。境内には国の天然記念物に指定されている「大山祇神社のクスノキ群」があり、多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈願してきました。その結果、ここに集められた武具の約4割が国宝や重要文化財に指定されており、保存されている甲冑の数は全国一を誇ります。

文化財

大山祇神社は、国宝8件、国の重要文化財76件(2014年時点)を有しています。これらの文化財は、紫陽殿や国宝館に展示され、一般公開されています。また、昭和天皇の「御採集船」として使われた「葉山丸」や、四国の海に生息する魚介類、全国の鉱石や鉱物を展示した大三島海事博物館(葉山丸記念館)も併設されています。

名称と歴史的変遷

名称の変遷

延喜式神名帳には「大山積神社」として記載されていますが、一般的には「三嶋大明神」や「三嶋社」、あるいは「大三嶋」とも呼ばれていました。平安時代の文献や、江戸時代初期に作成された伊予国の地図でも、「三嶋明神」と記されています。明治時代に入ると、社名は「大山祇神社」と改められましたが、祭神の表記は「大山積神」とされており、鳥居に掛けられた扁額も「大山積神社」となっています。

祭神

大山積神

大山祇神社の主祭神は、大山積神(おおやまつみのかみ)です。別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」や「三島大明神」とも呼ばれ、伊弉諾尊と伊弉冉尊の子供であり、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父とされています。

大山積神は元々山の神として信仰されていましたが、大山祇神社の地理的な特性から、海の神としての性格も強くなりました。現在では、社名「大山祇」と祭神名「大山積」で異なる表記が使用されていますが、これは時代や文献によって表記が異なるためです。

創建と由来

神社の由来に関する伝説

大山祇神社が鎮座する大三島は古くから「神の島」として信仰されていました。大山祇神社の創建に関しては、いくつかの説が存在します。社伝である『大三島記文』によれば、大山積神の子孫である小千命(おちのみこと)がこの島に神を勧請したとされています。また、別の伝説では、大山積神が百済から渡来し、摂津国の御嶋に鎮座した後、伊予国に勧請されたとも伝えられています。

近代の大山祇神社

歴史的出来事と役割

明治4年(1871年)、大山祇神社は国幣中社に列格され、大正4年(1915年)には国幣大社に昇格しました。戦前から戦後にかけては、日本の政治や軍事の第一人者たちが参拝し、海軍の資料や教材が奉納されるなど、国防に関連した重要な役割を果たしました。また、戦後、GHQによる刀剣類の処分命令に対しては、神社側がこれらを土中に秘匿するなどして保護しました。

神階

大山祇神社は、古代から高い神階を持つ神社として知られていました。六国史時代には、天平神護2年(766年)に従四位下が授けられたのを皮切りに、貞観17年(875年)には正二位に昇叙されています。これにより、大山祇神社は西日本を代表する高位の神社のひとつとして、熊野大社や出雲大社と並び称されました。

境内の文化財と見どころ

大山祇神社の境内

大山祇神社の境内には、神門や一の鳥居などの歴史的建造物があり、訪れる人々を魅了します。特に注目すべきは、国の天然記念物に指定されているクスノキ群で、壮大な自然の中に神秘的な雰囲気を感じることができます。また、国宝や重要文化財に指定されている武具が展示されている紫陽殿や国宝館も見逃せません。

現代に息づく神社の役割

現代においても、大山祇神社は日本の歴史や文化を象徴する重要な存在であり、観光地としても多くの人々が訪れています。また、海上自衛隊や海上保安庁の幹部たちの参拝もあり、今なお日本の国防に関わる場所としての役割を果たしています。

Information

名称
大山祇神社
(おおやまづみ じんじゃ)

今治

愛媛県