伊予国分寺は、愛媛県今治市国分に位置する真言律宗の寺院で、四国八十八箇所霊場の第五十九番札所として知られています。山号は金光山(こんごうざん)、院号は最勝院(さいしょういん)であり、本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来)です。伊予府中十三石仏霊場の第7番霊場にも指定されており、一般には「国分寺」と呼ばれます。
本尊の真言は「おん ころころ せんだりまとうぎ そわか」で、霊場ご詠歌は「守護のため建ててあがむる国分寺 いよいよめぐむ薬師なりけり」と詠われています。
天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって、伊予国分寺は諸国国分寺の一つとして建立されました。国分寺は『金光明最勝王経』による国家鎮護の寺であり、当寺もこれに由来して山号・院号が付けられています。寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基が開創し、第三世の智法律師の時代に空海(弘法大師)が滞在して五大明王の画像を描き、その後、真如が法華経を奉納したとされています。
史実としては、具体的な創建年は定かではありませんが、『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)に伊予国を含む26か国の国分寺に仏具などが下賜されたとの記載があり、この頃には完成していたと考えられています。その後、天慶2年(939年)の藤原住友の乱、元暦元年(1184年)の源平合戦、貞治3年(1364年)の細川頼之による兵火などで焼失しましたが、その度に再建されました。
天正12年(1584年)には長宗我部元親の侵攻によって再び焼き討ちに遭い荒廃しましたが、焼失を免れた多くの古文書によって、伊予国分寺が律令制衰退後も伊予における仏教信仰の中心地として維持されていたことがわかっています。現在の境内は、伊予国府のあった場所とされ、かつての境内は現在より東に位置していたと考えられています。
現在の本堂は寛政元年(1789年)に再建されたもので、境内の中心に位置しています。周囲には様々な仏像や石碑が配置されており、参拝者を迎え入れる佇まいとなっています。
本堂の右側にある大師堂と、棟続きになっている金毘羅堂は、境内の中心的な建造物の一つです。また、大師堂には握手修行大師像が祀られており、参拝者はその前で祈願することができます。
書院には奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧国分寺からの出土品が保存されています。鐘楼は境内にある石段を上った先にあり、訪れる人々に時を知らせています。
1050年(永承5年)に当寺の鎮守として勧請された春日神社は、1611年(慶長16年)に城主によって再建されましたが、明治初年の神仏分離により、当寺から分離独立しました。現在も境内の一角にその姿を残しています。
伊予国分寺には、以下のような文化財が所蔵されています。
今治市指定の文化財には、以下のものがあります。
最寄り駅は四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の伊予富田駅で、寺院までの距離は約2.1kmです。
せとうちバスの桜井団地循環もしくは唐子台循環に乗車し、「国分寺」バス停で下車、徒歩約200mです。
一般道では県道156号線を利用し、「国分寺前」交差点から約200mの位置にあります。自動車で訪れる場合は、今治小松自動車道の今治湯ノ浦IC(約4.3km)や、西瀬戸自動車道(西瀬戸しまなみ海道)の今治IC(約6.4km)が便利です。
光蔵寺は推古天皇10年(602年)に国守・小千益躬(おちますみ)が開基し、都の僧・日羅が開山したと伝えられています。本尊は薬師瑠璃光如来であり、小千が大病にかかった際に日羅が法を修して治癒させたことから、当地に小千の氏寺を建てたとされています。所在地は愛媛県今治市朝倉上です。
桜井石風呂は、空海が里人の闘病平癒のために開いたとされる番外霊場で、山上には薬師如来を祀っています。海浜洞窟を利用した蒸し風呂で、夏季にのみ営業しています。所在地は愛媛県今治市桜井です。
伊予国分寺は、長い歴史と共に数々の災禍を乗り越え、今日まで伊予の仏教信仰の中心地として存続しています。多くの文化財を有し、四国八十八箇所霊場の一つとして、全国から多くの参拝者を迎えています。訪れる人々は、歴史の重みを感じながら、心静かに参拝を行うことができるでしょう。