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光蔵寺

(こうぞうじ)

光蔵寺は、愛媛県今治市に位置する高野山真言宗の寺院で、山号を「医王山(いおうさん)」と称する古刹です。開山は日羅、創立者(開基)は小千益躬であり、本尊は薬師瑠璃光如来です。この寺院は、歴史と文化的な価値を持ち、また自然に囲まれた静寂な環境の中で多くの参拝者に親しまれています。

光蔵寺の概要

光蔵寺は、今治平野の朝倉盆地にあり、伊予国府の最南端、西条市境に近い旧越智郡朝倉上村水之上(みずのかみ)小寺山(こでらやま)の地、標高約120mの山岳寺院です。頓田川の源流である小寺川の北岸に位置し、椿ヶ森の山麓から中腹にかけて伽藍が広がり、その正面には龍門山を見据えています。境内はハクモクレンや唐椿の名所としても知られ、また平安時代前期の仏像を伝える歴史的な寺院でもあります。

寺院の名称と通称

古来より中世までは「高蔵寺」と呼ばれており、これは漢風の寺号です。一方、和風の寺号として「小寺(こでら)」という別称も持っていました。現在は、信仰の対象として「厄除薬師」として広く知られており、府中八十八ヶ所霊場第20番札所であり、四国八十八ヶ所霊場の第59番札所伊予国分寺の奥之院でもあります。

御詠歌

光蔵寺には二つの御詠歌があります:

なお、第2番の御詠歌は平泉澄の作と伝わっています。

光蔵寺の歴史

光蔵寺の創建は、推古天皇10年(602年)に小千益躬(おちますみ)が草創し、日羅上人が開基と伝えられています。光蔵寺の東方約200mの位置には、原初に宇迦之御魂神を祀っていた稲荷神社(現飯成神社)があり、その「飯成神社沿革誌」によれば、光蔵寺がその別当寺であったことが記されています。

創建の伝承

『古寺旧記高蔵寺縁起本』によれば、推古天皇10年に小千益躬が大病を患い、都の僧である日羅上人が病気平癒のため水之上小寺の地にて薬師如来の霊験を見出し、延寿の法を修し回復したため、ここに小千の氏寺を造営したと伝えられています。本尊は薬師如来で、立像と坐像の2体が安置されています。

歴史的背景と変遷

南北朝時代には、吉野から下向した南朝の良成親王の行在所となり、親王の伊予逗留を援けたことから、「慶壽院」の号と「菊紋」を下賜されたと伝えられます。また、親王が南朝の戦勝祈願に用いたとされる「金銅五鈷鈴」と、南朝年号・文中2年(1373年)の奥書がある「大般若経二百巻」を所蔵しています。

天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐の際、光蔵寺は河野家の砦となり、小早川隆景の軍勢によって伽藍堂塔が焼失しましたが、文禄2年(1594年)に福島正則の許しを得て智尊大徳が再興しました。江戸期の慶長年間には、越智郡鴨部郷の光林寺を中本寺とする大覚寺結集の次席寺、二等格寺院として列席し、寺号を「光蔵寺」と改めました。

伽藍と境内

光蔵寺は、典型的な山岳寺院であり、小寺川に架かる小寺橋を渡ると再興時の石垣が見え、石段(大門坂)を上がると山門が現れます。境内には庫裏、客殿(方丈)、護摩堂、本堂、そして円光堂が配置されています。

本堂

本堂には、薬師如来立像、日光・月光菩薩、薬師十二神将像、観世音菩薩立像、如意輪観音像(飯成神社の本地仏)などが祀られています。

護摩堂

護摩堂は文政8年(1825年)に建立され、平成19年に改修が行われました。ここには、厄除薬師如来坐像(等身大)、一願青不動明王立像、延命地蔵菩薩立像、弘法大師坐像が安置されています。

その他の施設

円光堂、鎮守堂子宝社(祠)には小千益躬を祭神とし、子宝石を御神体としています。また、境内には千手観音、地蔵、延命地蔵の石像などがあり、歴史を感じさせる風景が広がっています。

寺宝

光蔵寺には、多くの貴重な寺宝が伝えられています:

アクセスと周辺情報

光蔵寺へは、予讃線今治駅からせとうちバスで上朝農協前で下車し、徒歩2分で到着します。寺の周辺には、かつて別当寺であった飯成神社もあり、歴史的な散策が楽しめます。

光蔵寺は、歴史的な背景を持ちながらも、自然豊かな場所にあり、多くの人々に親しまれています。厄除けや祈願のために訪れる方も多く、今治市の重要な文化財として、これからもその魅力

Information

名称
光蔵寺
(こうぞうじ)

今治

愛媛県