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飯積神社

(いいづみ じんじゃ)

飯積神社は、愛媛県西条市下島山に鎮座する神社で、旧社格は郷社です。神紋は抱き稲束で、太鼓台の「寄せがき」発祥の神社として知られています。

祭神

飯積神社では、主祭神として倉稲魂命(うかのみたまのみこと・稲荷神)を祀っています。この他に、國魂愛比売(くにたまえひめ)、十城別王(とおきわけぎみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)の五柱が祀られています。

神社の由緒

創祀と歴史的背景

飯積神社は、伊曽乃神社のご祭神である武国凝別命の孫である十城別王が、食物の神・倉稲魂命を創祀し、さらにこの地に早くから住んでいた先住民が祀っていた國魂愛比売を併せて祀ったことに始まります。この創祀の頃、仲哀天皇と神功皇后が現在の社地である島山を訪れ、繁茂していた神木の櫟にて笏を作り、鎮魂祭を行いました。その際に詠まれた神楽歌が「島山に櫟たかまき うつみさし 仕えまつるは おほい公達」です。

十城別王の系譜

十城別王について、社記によれば、吉備の武彦の姫である武媛が日本武尊との間に二人の息子をもうけたとされています。その一人が讃岐国綾歌郡に住む武卵王(たけかいこのきみ)、もう一人が伊予国神野郡(後の新居郡)島山郷に住む伊予別君(十城別王)です。また、滋賀県園城寺所蔵の和気系図(国宝)では、十城別王は伊曽乃神社のご祭神である武国凝別命の御孫とされています。

櫟津神社としての歴史

古くは、飯積神社は櫟津神社(いちいづじんじゃ)と呼ばれ、櫟津稲荷大明神として信仰されてきました。島山郷(大生院・半田・上島山・下島山・船屋)の人々の農耕を守護する神として崇められ、社地は櫟津岡(いちいづのおか)と呼ばれていました。この名は、古代よりこの岡に櫟の木が繁茂していたことに由来し、また、かつては海水が岡の周囲を巡り、船着き場(津)を形成していたことに因んでいます。

社殿の変遷と歴史的出来事

飯積神社は天正13年(1585年)の小早川隆景による四国征伐(羽柴秀吉の四国攻め)の戦火、および安政年間の火事により社殿や社宝を焼失しました。唯一残っている社記には、宝暦2年(1752年)12月3日に京都の神道管領、吉田家の姓名印章が記されています。また、万葉集巻十六には、長忌寸意麻呂(ながのいみきおきまろ)が京師に遊んだときの即興歌が載せられています。

近代における社格の変遷

明治5年(1872年)に近代社格制度の導入にともない、飯積神社は新居郡島山郷の郷社に列せられました。現在でも、地域の信仰の中心として多くの参拝者を迎えています。

境内施設

一の鳥居と参道石段

境内の入口に位置する一の鳥居をくぐると、参道の石段が続きます。両側の玉垣は平成17年に完成したもので、旧来の基礎を利用して設けられました。

拝殿と本殿

拝殿は平成13年に新しく改築されました。設計は日本建築工芸設計(東京)、施工は株式会社奥谷組(京都)です。また、神社の行事を手伝う「飯積会」が氏子により組織されています。本殿は安政4年(1857年)に完成し、桧皮葺三間社流造り(千木・勝男木なし)で、棟には五三桐紋が施されています。

摂末社

境内には、天神社(小堂)、大先神社(小堂)、今宮藤原神社(祠)、大浜素鵞神社(祠)、新宮社(祠)、社日社(祠)などの摂末社が点在しています。

歌碑

境内南側には、長忌寸意麻呂の古歌「さし鍋に湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ」の歌碑が建立されています。

文化財

西条市指定文化財

飯積神社には以下の西条市指定文化財があります。

年中行事

飯積神社では、以下のような年中行事が行われています。

飯積神社例大祭と秋の太鼓祭り

飯積神社例大祭は、毎年10月16日と17日に行われ、11台の新居浜型太鼓台が氏子によって奉納されます。明治期には8台、大正から昭和期には6台でしたが、昭和58年に大谷が復興して以来、現在の11台となっています。17日には宮出しに勢ぞろいし、船屋にて「かきくらべ」を行い、神輿の御旅所である本谷御旅所に着きます。その後、祭礼は半田・大生院にかけて繰り広げられます。

Information

名称
飯積神社
(いいづみ じんじゃ)

新居浜・西条・石鎚山

愛媛県