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新居浜 太鼓祭り

(にいはま たいこ まつり)

新居浜太鼓祭りは、愛媛県新居浜市で毎年秋に開催される大規模な祭りです。徳島の阿波踊りや高知のよさこい祭りと並び、四国三大祭りの一つとして広く知られています。また、日本三大喧嘩祭りの一つにも数えられ、その起源は平安時代に遡るとされています。

祭りの概要

太鼓台の勇壮な練り歩き

新居浜太鼓祭りは、毎年10月16日から18日までの3日間にわたり、新居浜市内の諸地区で開催されます。祭りの象徴である太鼓台(たいこだい)は、全長22メートルの担ぎ棒を備え、高さ6.5メートル、重さ2トンにも及ぶ巨大な山車で、約200人の「かき夫」と呼ばれる男衆がこれを担ぎます。

太鼓台は金糸刺繍で豪華に装飾され、最上部の「天幕」は太陽を表し、四隅の黒い「括(くくり)」は雲、括の先端から垂れる白い「房」は雨を象徴しています。さらに、上段には金龍が刺繍され、「布団締め刺繍」と呼ばれる昇り龍・降り龍が施され、中段は「上幕」、下段は「高欄幕」として、16枚の豪華な飾り幕で構成されています。

太鼓台の地区分けと運営

新居浜市内の太鼓台は、川西・川東・上部の3つの地区に大別され、合計54台が参加します。各太鼓台は、地元の自治会や青年団などによって維持・管理され、祭りの統一的な運営は各委員会や協議会によって行われています。なお、地元では太鼓台のことを伝統的に「太鼓(たいこ)」と呼ぶこともあります。

新居浜太鼓祭りの歴史

起源と発展

新居浜太鼓祭りの起源は平安時代に遡り、当時は御神輿のお供をする山車として祭りの一部を担っていました。江戸時代に入ると、現在の太鼓台の原型が登場し、徐々に祭りの中心的存在へと成長していきました。最古の記録は江戸時代後期の文政年間(1818年 - 1830年)のもので、その頃には「神輿太鼓」と呼ばれていましたが、後に「太鼓台」という名称が一般的になりました。

明治時代以降の変貌

明治時代には、別子銅山の発展や工場建設に伴い、新居浜市は急速に経済的な成長を遂げ、祭りもより華やかで盛大なものへと変わりました。太鼓台の大型化が進み、金糸刺繍による豪華な飾りが施され、現在のような勇壮な姿となりました。現在では、1台の太鼓台を200人以上のかき夫が担ぐまでに発展しました。

他地域への影響

新居浜型の太鼓台は、周辺地域にも大きな影響を与えており、四国中央市や西条市、さらに香川県などでも新居浜型の太鼓台が使用されています。

年表と主な出来事

平安時代から江戸時代

平安時代や鎌倉時代の地域伝承では、新居郡の祭礼の起源が平安時代に遡ることが記されています。江戸時代には樽神輿や藁神輿が主流でしたが、次第に太鼓台が登場し、祭りの中心としての役割を担うようになりました。

明治時代

明治中期には、別子銅山の開坑によって地域経済が発展し、太鼓台の大型化が進みました。この頃から現在の太鼓台とほぼ同じサイズとなり、飾り幕も豪華になり、天幕にも膨らみがもたらされました。

昭和から平成時代の出来事

以下に新居浜太鼓祭りに関連する主な出来事を年表形式でまとめます。

1937年から1939年

全太鼓台が出場を見合わせました。

1951年

新居浜市太鼓台運営協議会が発足し、統一運営が始まりました。

1970年

日本万国博覧会に新居浜太鼓台が出演し、これを皮切りに太鼓台の派遣事業が本格化しました。

1987年

市制施行50周年を記念して、国領川緑地で初の全地区統一寄せが開催されました。

1997年

市制施行60周年を記念して、楠中央通りに39台が集結し、2回目の全地区統一寄せが開催されました。

現在の新居浜太鼓祭り

現代では、新居浜太鼓祭りは地域住民だけでなく、全国各地からの観光客をも引き寄せる一大イベントとなっています。勇壮な太鼓台の競演や、伝統的な衣装に身を包んだ参加者たちが織りなす華やかな光景は、観る者を圧倒します。

地域の発展と共に歩んできた新居浜太鼓祭りは、今後もその伝統を守りながら、地域の誇りとして多くの人々に愛され続けることでしょう。

Information

名称
新居浜 太鼓祭り
(にいはま たいこ まつり)

新居浜・西条・石鎚山

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