長福寺は、愛媛県西条市北条(旧壬生川町)に位置する由緒ある寺院です。長い歴史を持ち、美しい藤の花や文化財としての価値が高い建造物が特徴です。
長福寺の創建は、鎌倉時代後期の弘安4年(1281年)に遡ります。この年、元軍の来襲に際し、執権北条時宗の命を受けた伊予の豪族である河野家48代当主の河野通有(かわのみちあり、~1311年)は、一族を率いて博多で奮戦しました。しかし、この戦いで彼の叔父にあたる河野通時をはじめ多くの将兵が戦没しました。通有は、彼らの冥福を祈るため、翌年の弘安5年(1282年)に、自らの館を寺として長福寺を創建しました。
その後、長福寺は幾度も荒廃の危機に見舞われました。特に天正の陣(1585年)では、河野氏の滅亡とともに寺も戦火を被り、一時は荒廃しました。しかし、慶長年間(1596年~1615年)に再興されました。その後、寛永20年(1643年)には南明(なんめい)東湖禅師が入山し、それまでの山号「海印山(かいいんざん)」から「東海山(とうかいざん)」へと改め、さらに東福寺派から妙心寺派に改宗し、長福寺の再興を果たしました。
長福寺には、南明禅師とともに寺に住み着いたとされる狸「喜左衛門狸(きざえもんだぬき)」の伝説が残っています。この狸は、禅師の修行を妨げることなく見守り続けたとされ、地元では親しまれています。この伝説は、長福寺の歴史と文化の一部として今なお語り継がれています。
長福寺の山門は、1764年に建立された歴史ある建造物です。築地塀には矢狭間(やさま、矢を射るための穴)があり、当時の武士社会の影響を感じさせる作りとなっています。また、山門には一柳直卿(いちやなぎなおたか)による扁額「東海山」が掲げられており、これは西条市の有形文化財に指定されています。
現在の本堂は1894年に建立され、本尊には釈迦三尊が祀られています。本堂の内部は厳かな雰囲気で、仏教の教えに触れることができる場となっています。特に法要の際には、多くの参拝者が訪れ、仏教の伝統行事が厳粛に行われます。
庫裡は昭和初期に再建されました。庫裡と本堂の間には、書院風の大玄関が設けられ、禅寺としての特徴を色濃く残しています。庫裡は僧侶の日常生活の場でありながら、訪れる人々にも開放され、僧侶の生活や修行の様子を知ることができる場所でもあります。
護国殿は、戦没者の冥福を祈るための特別な祠です。ここには、河野氏に仕えた将兵たちの霊が祀られており、歴史を感じさせる厳かな空間が広がっています。訪れる人々は、戦乱の歴史とそれに関わった人々の魂に思いを馳せることができます。
宝篋印塔は、鎌倉時代末期に建立されたもので、河野通有の墓と伝えられています。この塔は山門を入って右側に位置しており、当時の技術と美意識を感じさせる貴重な文化財です。訪れる人々は、その美しい造形に目を奪われ、河野氏の歴史と文化の深さを感じることができます。
長福寺の鐘楼堂は、袴腰式(はかまごししき)の美しい建築様式が特徴です。これは、鐘楼の下部に袴腰(はかまごし)と呼ばれる構造を持つ独特の形式で、寺院建築の美しさと機能性を兼ね備えたデザインです。鐘楼堂は、毎年行われる除夜の鐘の際に多くの参拝者が訪れ、一年の無事を感謝し、来年の幸せを願う場となっています。
長福寺の境内には、白色、藤色、ピンクの4種類の藤が一つの藤棚に咲き誇る美しい光景が広がります。春になると、藤の花が一斉に咲き誇り、訪れる人々の目を楽しませてくれます。この藤棚は地域の名所として親しまれており、多くの観光客がその美しさを楽しみに訪れます。
長福寺には、普通車約20台が駐車できる無料の駐車場が完備されています。遠方から訪れる観光客にとっても便利な環境が整えられていますので、安心して参拝や観光を楽しむことができます。
長福寺には、県指定有形文化財である「長福寺梵鐘」があります。この梵鐘は、鐘身が90.3cm、重さが187kg、青銅製で、明暦元年(1655年)に朝鮮の鐘を模して鋳造されたものです。長い歴史の中で、寺院の守護としての役割を果たしてきました。1965年4月2日に県の有形文化財に指定され、その美しい音色とともに歴史の重みを今に伝えています。
平成29年(2017年)3月28日、南明禅師の書写による「予章記」が県の有形文化財に指定されました。この「予章記」は、南明禅師が長福寺にて書き残した貴重な文書であり、彼の思想や教えを知る上で重要な資料となっています。
平成21年(2009年)2月26日には、南明禅師が書写した「河野系図」が西条市の有形文化財に指定されました。この系図は、河野氏の歴史や系譜を記したものであり、伊予の豪族であった河野氏の歴史を知る上で貴重な資料です。