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石鈇山 正法寺

(いしづちざん しょうぼうじ)

正法寺は、愛媛県新居浜市大生院に位置する真言宗御室派の寺院です。正式な名称は石鈇山(いしづちざん)往生院(おうじょういん)正法寺であり、嵯峨天皇の勅願寺としても知られています。伊予三名山の一つである笹ヶ峰の別当寺でもあります。この地域の「大生院」という地名も、当寺の寺号「往生院」に由来しており、その歴史的な影響が見て取れます。

寺の歴史

石鈇山往生院正法寺の創建は平安時代初頭に遡ります。この寺院は、賀美能宿禰によって秦氏の氏寺として建立されました。その開基は、上仙(または寂仙)と呼ばれる人物であり、彼は一宮神社で生まれた同族でもありました。平安時代初期の文献には、神野郡(現在の新居浜市や西条市)は石鎚山の麓として古くから神が祀られ、また東大寺の穀倉地としても重要視されていた地域であると記されています。この地には、大寺があり、その地の人々の菩提寺として機能していたことがわかります。

戦国時代の火災と再建

正法寺は、嵯峨天皇の勅願寺として伊予国最大級の寺院であり、七堂伽藍を誇っていました。しかし、天正13年(1585年)の天正の陣において兵火により全焼してしまいます。その後、一度は再建されましたが、渦井川の氾濫などの災害が続き、元禄時代には山裾へ移転し、仁和寺の末寺として新たな歴史を歩むことになりました。現在の客殿や旧本堂は文政8年(1825年)に再建されたもので、当時の棟札には「奉再建 本堂一宇 現住沙門権大僧都 智雄代」と記されています。これにより、総檀中や寄進者たちが仏への信仰心を持って再建に尽力したことが伝えられます。

正法寺と笹ケ峯の関わり

寺伝や大生院村の庄屋文書によると、平安時代から正法寺は別当寺として機能し、頂上には石鈇大権現を祀り、修験道の道場として栄えました。奈良時代には、石鎚山は笹ヶ峰を指していたとされ、今でも石鈇権現の別当を称して、毎年7月に笹ヶ峰でお山開きの登拝が行われています。この伝統は長い歴史にわたって守られてきました。

笹ケ峯の信仰と交通

JR中萩駅は、正法寺への参詣や笹ケ峯信仰のために昭和10年に設置されました。さらに、昭和10年11月には「石鈇山」と書かれた扁額を持つ石の鳥居が道路を跨ぐように建てられ、この地域の重要な信仰の場としての位置づけが強調されています。笹ケ峯は四国で三番目の標高を誇り、伊予の高嶺とも呼ばれ、登山者や信仰者にとって特別な場所です。

新居誕生の歴史

「新居」という地名の由来についても興味深い歴史があります。伊豫の神野郡から宮中に仕えていた女性が嵯峨天皇の乳母を務め、その功績により「神野宿禰」の称号を賜りました。この出来事は日本書紀の第弐巻『続日本紀』にも記載されています。また、嵯峨天皇の諱が「神野親王」と名付けられたことや、乳母にも「神野」の名が贈られたことが記されています。

新居郡の誕生

嵯峨天皇の即位に伴い、神野郡の地名が天皇の諱と重なることから、新たに「新居」という名が授けられました。これが現在の新居郡の始まりであり、「新居誕生史」として伝えられています。『続日本紀』や『類聚国史』にも、大同4年(西暦809年)に神野郡が新居郡に改名されたことが記録されています。これにより、新居浜市やその周辺地域の歴史的背景が明らかになります。

近年の発掘調査

現在、正法寺の北側には田園が広がっており、これらの一帯がかつての境内であったとされています。昭和5年(1930年)7月には、寺の周辺で蓮華紋巴瓦や唐草瓦、さらに泥塔が発見されました。これらの遺物は、正法寺が古代においても重要な寺院であったことを物語っています。平成30年の発掘調査でも、文献に記載されていた通り、泥塔や瓦が発見され、正法寺の歴史的な価値が再確認されました。

境内の現在の姿

現在の正法寺の本堂は、元禄年間に京都御室派(仁和寺)の末寺として山裾に移転したものであり、境内はかつての壮大な規模を偲ばせるものとなっています。境内には紫陽花が咲き誇り、訪れる人々を迎えています。山門をくぐると、本尊である大聖不動明王が祀られた本堂があり、薬師堂や六地蔵堂なども見られます。これらの建物や石碑には、地域の人々の信仰が今も受け継がれています。

周辺の神社

正法寺の周辺には、王神社や妙見神社といった神社も点在しており、地域の信仰の一部を形成しています。王神社では10月15日に大祭が行われ、妙見神社では2月初牛の日に大祭が行われ、眼病平癒の御利益があるとされています。

Information

名称
石鈇山 正法寺
(いしづちざん しょうぼうじ)

新居浜・西条・石鎚山

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