伊曽乃神社(旧字体:伊曾乃神社)は、愛媛県西条市中野に位置する歴史ある神社です。式内社(名神大社)であり、旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社として登録されています。神社の神紋は「御所車」で、豪華絢爛な「西条祭り」で最大規模のだんじりが奉納される神社としても有名です。古くは「磯野宮」とも称されていました。
伊曽乃神社の祭神は、天照大神の荒魂である「武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)」の2柱で、「伊曽乃神」と総称されています。もともと祭神は1柱の天照大神の荒魂でしたが、後に武国凝別命が加えられ、2柱が祀られるようになりました。天照大神は本殿内陣の正中に奉斎され、武国凝別命はその左側に祀られています。
社伝によれば、第13代成務天皇7年(紀元後100年頃)、伊予御村別(みむらわけ)の祖である武国凝別命が東予地方を開拓する際に、皇祖神である天照大神を祀ったことが神社の始まりとされています。武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて伊勢国から伊予に渡り、現在の西条市朔日市の御船森に着いたといいます。「御船森」という地名は、彼が御舟川沿いに上陸したことに由来します。
孝徳天皇の大化年間(645年〜650年)にこの地域が「神野郡」(のちの新居郡)と命名されたのは、伊曽乃神社が既に祀られており、この地域が神の地(かみのち)と呼ばれていたことに由来するという説もあります。
『続日本紀』天平神護2年(766年)の条に、伊曽乃神に従四位下の神階が授けられ、神戸(かんべ)5煙を充てる旨が記されています。また、『新抄格勅符抄』大同元年(806年)では、当時の「伊曽乃神」には伊予国から15戸が神戸として充てられており、そのうち10戸は天平神護元年(765年)、5戸は天平神護2年(766年)の符によるとされています。
その後、貞観8年(866年)には正四位下、貞観12年(870年)には正四位上、貞観17年(875年)には従三位に昇叙され、名神大社としての地位を確立しました。延長5年(927年)に成立した『延喜式』神名帳では、伊予国新居郡に「伊曽乃神社 名神大」と記載され、名神大社として記されています。
天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐の際、社殿や社宝が兵火にかかり焼失しました。その後、社殿は土佐国へ遷座しましたが、慶長11年(1606年)に旧地に復座し、再建されました。近代社格制度の発足時には、祭神不詳として官社の認可を受けられませんでしたが、伊予国第一県社とされ、昭和15年(1940年)に国幣中社へ昇格しました。
伊曽乃神社の境内には、石製の一ノ鳥居や銅製の二ノ鳥居があり、神門の前ではだんじりの引廻しが行われます。本殿は昭和15年に建築された総檜造りの神明造りで、拝殿は祭神が天照大神であるため東向きに建てられています。
境内正面の神木のクスノキは高さ30m、幹の周囲が5.5m、推定樹齢700年を誇り、西条市の名水名木50選に選定されています。また、宝物館では歴史的な資料や宝物が展示され、大人300円、子供100円の拝観料で公開されています。
伊曽乃神社の例大祭は毎年10月15日・16日に行われ、だんじり(楽車・屋台)77台、みこし(御輿楽車)4台が奉納されます。これは全国最多ともいわれ、他の地域には見られない大規模な祭りです。15日未明には神門前で順次だんじりが宮入りし、演技を披露します。16日夕刻には、神輿が川(加茂川)を渡り、祭りが終わります。地元神戸地区のだんじり11台が、川を渡る神輿の行く手を阻む光景は圧巻です。
地元には「石鎚の神の投げ石」という伝説が伝わっています。伊曽乃の女神と石鎚山の男神が加茂川の畔で出会い、恋仲となったが、男神は修行のため結婚を断ったといいます。男神は「修行を終えれば結婚する」と言い残し、石鎚山から3つの大石を投げ、真ん中の石が落ちた場所に館を建てて待つように伝えました。現在、一の鳥居の脇には「石鎚の神の投げ石」と伝えられる石が残されています。
鎌倉時代に作成された「与州新居系図」は、愛媛地方の豪族・新居氏の系図で、東大寺の僧・凝然が弘安4年(1281年)頃に書写したものです。この系図は、和気系図(滋賀県の園城寺蔵)や海部系図(京都府の籠神社蔵)と並び「日本三大古系図」と称され、昭和27年に重要文化財に指定されました。
伊曽乃神社には広い駐車場があり、参拝者は無料で利用できます。ただし、例大祭の期間中は駐車場が使用できないため、公共交通機関の利用が推奨されます。
このように、伊曽乃神社は長い歴史と豊かな文化を持ち、地域の人々から厚い信仰を集める神社です。特に例大祭の際には、多くの人々が訪れ、神社の壮大な歴史と伝統を体感することができます。